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長崎地方裁判所 平成元年(行ウ)2号 判決

原告

山木菊江

右訴訟代理人弁護士

龍田紘一朗

福崎博孝

石井精二

被告

長崎大学長土山秀夫

右指定代理人

福田孝昭

佐々木正光

城登

前田信孝

古田豊隆

中村胖

深堀貢

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

被告が原告に対してした昭和六〇年一二月二七日付懲戒免職処分はこれを取消す。

第二事案の概要

一  懲戒免職処分に至る経緯(特に証拠を掲示していない事項は当事者間に争いがない。)

1  原告は、昭和四八年四月一日長崎大学医学部付属病院に文部技官看護婦として採用され、以後看護婦、助産婦として同病院に勤務していた。

2  昭和六〇年一〇月二〇日、かねて新東京国際空港(成田空港)の第二期工事に反対していた三里塚芝山連合空港反対同盟の主催する「一〇・二〇総決起集会」(以下「本件集会」という。)が、千葉県成田市三里塚上町二番地の三里塚第一公園(以下「公園」という。)において行われた。原告は、「三里塚百万人動員九州実行委員会」の呼び掛けに応じて、そのメンバーの一員として本件集会に参加した。

なお、本件集会の行われた公園付近の状況は、別紙図面(三里塚第一公園付近住宅地図)のとおりである(〈証拠略〉)。

3  本件集会には、中核派を中心としたいわゆる過激派集団多数も参加していたが、同集団は、あらかじめ、丸太、鉄パイプ、角材、火炎びん、石塊等を用意して同日一六時二〇分ころ公園を出発し、同二三分ころ別紙図面右端に三里塚十字路と表示されている同市三里塚上町四二番地先交差点(以下「三里塚交差点」という。)付近において、警備の警察部隊と衝突した。その結果、同交差点付近一帯は大混乱に陥り、双方に多数の負傷者が出るとともに、投石や火炎びんによって、付近の民家、商店等の窓ガラスや塀が損壊したりあるいは建物の一部が炎上するなどの被害が生じた(〈証拠・人証略〉)。

そして、同日、同交差点、同交差点から公園前までの国道及び公園等において二四一名の者が兇器準備集合罪、公務執行妨害罪及び火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反等の容疑で逮捕されるに至った(同右)。

4  原告は、同日一七時一〇分ころ、公園前の国道の北側路地のひとつである別紙図面にA路地と表示した路地(以下「A路地」という。BないしD路地についても同じ。)の同市三里塚一の二〇七小川麟之助所有地先路上で、機動隊員によって兇器準備集合罪、公務執行妨害罪の現行犯として逮捕された。その後、原告は、同年一一月一一日まで勾留されたが、同日不起訴処分になり、釈放された。

5  被告は、同年一二月二七日、国家公務員法八二条一号及び三号所定の懲戒事由に該当するとして、原告を懲戒免職処分(以下「本件処分」という。)に付した。

その処分理由は、「原告は、昭和六〇年一〇月二〇日、千葉県成田市三里塚において、成田空港二期工事等に反対して、警備の警察官に対し、石塊を投げつけ、鉄パイプ、角材で殴打するなどにより、兇器準備集合罪、公務執行妨害罪等の容疑で二四一人の逮捕者を出した集団と行動を共にし、自らも兇器準備集合罪、公務執行妨害罪等の現行犯で逮捕された。右集団の行動は、極めて反社会的なもので、これと行動を共にした原告の行為は、全体の奉仕者である国家公務員としてあり得べからざることである。また、このことは、官職の信用を著しく失墜させるものであり、国家公務員法九九条に違反する。」というものであった。

6  原告は、本件処分を不服として、翌昭和六一年二月二四日、人事院に対して国家公務員法九〇条に従って審査請求をしたが、平成元年三月一七日「本件懲戒免職処分を承認する」との判定がなされた。

二  争点

1  原告は、本件処分は違法であるとしてその取消を求め、被告の処分理由の主張に対して主に以下のとおり反論する。

(一) 本件処分は、架空の事実を処分理由としている。すなわち、原告は、本件集会には参加したが、集会終了後は反対同盟の主催する正規のデモ行進に参加し、解散地点付近で帰りのバスに乗り込む予定であった。ところが、集会終了前に過激派集団が右反対同盟と無関係にデモ行進に出発し、機動隊と衝突して三里塚交差点付近が騒然とした状態になったため、一六時三〇分ころ集会が終わった後に、集会主催者側から、正規のデモ行進に出発するまでの間しばらく公園内に待機するよう指示があり、原告もその指示に従って松本榮二夫婦らとともに公園内に待機していた。原告は、その間小用を済ませておくために一七時前後ころ下河弘美に告げて公園正面入口近くに設置されたトイレに行ったが、その際、三里塚交差点付近の混乱がどのような状況になっているのか気にかかり、公園正面入口から国道に出て、はるか遠くの混乱を見ていたところ、突然、機動隊が集会参加者に対する無差別・一斉逮捕行動に突入し、原告の後方などからも迫ってきた。同時に公園東横の路地から放水車が国道方向に進行してくるのが見えた。原告は、予期しない方向からの機動隊の出現により公園内に戻るすべを失い、とっさに本件逮捕現場の路地(A路地)へ逃げこんだところ、追ってきた機動隊警察官に追い付かれ、背中から楯で押さえ付けられて拘束され、そこから路地の奥の方に引きずられて行き本件逮捕現場付近で逮捕された。したがって、原告は自ら投石等の行為に及んだことがないことはもちろん、そのような行為に及んだ集団と行動を共にしたことはないのであり、逮捕勾留中も、容疑事実についての実質的な取り調べはなく、結局起訴されないまま釈放されている。被告の本件処分は、逮捕という事実のみにより、原告が「右集団と行動を共にした」と認定してなされたもので、ずさんな認定による架空の認定事実に基づいている。

(二) 本件処分は、被告がした他の事例に対する処分や、当日の他の逮捕者の処分と比較しても異常に過酷に過ぎる。

(三) 本件処分に至る手続的経緯そのものも異常である。すなわち、本件処分は、文部省などからの厳重処分を求めるとの指導等に基づき、文部省との緊密な協議の下にこれに迎合してなされたものである。また、過去において、国家公務員に対しては、逮捕の事実のみを理由として懲戒免職処分が行われたことはなく、かつ、起訴休職後に有罪確定を待って処分を決定するという事実上のルールが確立していたにもかかわらず、これに反して、極めてずさんな調査と確認手続に基づいて敢行された。

(四) 処分理由事実そのものも、あいまいで意味不明である。すなわち、処分理由説明書によると原告が過激派集団と「行動を共にした」ということが処分理由事実になっているが、「行動を共にした」とは極めて幅の広いあいまいな概念で、単なる評価に過ぎず、「事実」としては極めて不十分である。このような意味不明の、したがって防御のしようのない理由によって処分がされること自体極めて異常・不当なことであって、このようなことが罷りとおるならば、ひいては民主主義の重大な危機を招来するといわなければならない。

2  被告は、本件処分の適法性について、主に以下のとおり主張する。

(一) 原告が本件処分理由にあるように過激派集団と行動を共にし、逮捕されるに至ったことは、証拠上明らかである。すなわち、原告は、中核派の活動家であるか若しくは中核派と密接な関係にある者で、本件集会には、単に反対同盟の主催する総決起集会に参加するためだけではなく、機動隊せん滅、空港突入をスローガンとして武力闘争を企てた過激派集団の中心部隊である中核派の一員として、集会後の集団武力闘争に加功するために参加した。そのうえで、原告は、集会後三里塚交差点付近で警備の警察部隊を武力攻撃した右過激派集団の後方支援部隊の一員として、逮捕地点となったA路地において、過激派約三〇人と共に、バリケードを挾んで機動隊と対峙し投石を繰り返すなどの攻撃を加え、もって、前記過激派集団と行動を共にしていたのである。そして、原告は、右三〇人の集団の中の左手前に居るところを、一七時三分ころ検挙活動を開始しバリケードを乗り越えてきた警視庁第四機動隊員に現認され、後退して逃走しようとしたところを同一〇分ころ現行犯逮捕された。

右のような原告の行為は、国家公務員全体に対する信用を著しく害し、国家公務員の社会的評価を低下毀損させたもので、国家公務員法八二条一号及び三号に該当する。

(二) また、本件処分の相当性についてみても、本件の懲戒免職は、原告が、逮捕されることのあることを認識しながら確固たる信念に基づいて違法行為に参加していること、機動隊めがけて鉄パイプ、角材、火炎びんなどの兇器を使用して突入した中核派等の過激派集団の後方支援部隊の一員として有力な働きをしていることや、右過激派集団の行為は兇器準備集合罪等の重大犯罪にあたり、組織的・計画的に敢行された大規模な凶悪事件で、社会に及ぼした影響は計り知れないこと、原告は、採用間もないころから突発的で強引かつ連続した休暇を請求し、今回も上司の職務命令に従わず無断欠勤してまで本件集会に参加したものであること、釈放後に上司から事情聴取を受けた際にも一切説明を拒否して改悛の情を示さなかったことなど諸般の事情を総合的に考慮してなされたものであって、懲戒権者に委ねられた裁量の範囲内にあり、適法なものである。

第三争点に対する判断

一  処分理由の存否について。

本件における最大の争点は、処分理由の存否であり、中でも、原告が問題の過激派集団と「行動を共にした」といい得るか否かが最も重要な点である。

そこで、まず、本件集会に至るまでの経過や過激派集団の行動、原告のこれとの係わりや警備側の動静など検討の前提となるべき概括的な事実を認定したうえで、原告及び被告の各主張に沿った証拠の信用性などについて順次検討することにする。

1  まず、前記第二の一の処分に至る経緯に記載した事実に、(証拠・人証略)及び原告本人尋問の結果を総合すれば、以下の事実(一部、判断を含む)が認められる。

(一) 昭和六〇年は成田空港開港七年目にあたり、第二期計画の準備工事に取りかかる計画になっていた。そのため、二期工事反対を掲げて運動を展開してきた中核派などの過激派組織は、「着工絶対阻止」を叫んで同年八月ころから機関誌やビラ等で対決姿勢を強め、現地の集会後のデモ行進の際などには、機動隊への投石などを繰り返していた。

そのような情勢のなかで開かれた本件集会は、三里塚芝山連合空港反対同盟が、「二期工事阻止」「不法収用法弾劾」等のスローガンを掲げて各支援団体にも呼び掛けたうえで開催したものである。中核派は、反対同盟の招請を受けて、その機関誌である「前進」に「一〇・二〇成田空港突入へ幾百万決起つくりだせ」「機動隊をせん滅せよ。人民は武器をとれ。全学連五〇〇〇を先頭に阻止線を突破し総進撃を」などの記事を大々的に掲載して、当日を期して機動隊を襲撃して成田空港に突入することを宣明し、そのための結集を強力に呼び掛けた。原告は、本件集会に「三里塚百万人動員九州実行委員会」の呼び掛けに応じたメンバーの一員として参加したが、右九州実行委員会の連絡先は、「前進社九州支社」、「全学連、福岡県反戦青年委員会」及び「マルクス主義学生同盟 中核派」の福岡の連絡先と同一であり、いわゆる中核派に属する一組織であると解される。

(二) 原告は、昭和五三年ころから反対同盟の主催する集会に参加するようになり、その際にも右九州実行委員会の一員として参加してきていた。原告は、それ以外にも中核派と共に反戦平和の集会などにも参加し、大学構内で中核派のアジビラを配付したことなどもある。また、原告の夫は前記機関誌「前進」を発行する前進社の九州支社に寝泊まりしている活動家であり、原告自身も中核派の積極的な同調者であると解される。

(三) 原告は、本件集会に参加するため病院長に対し休暇の希望を出したが容れられなかったにもかかわらず、一〇月一九日(土曜日)午前中の勤務を終えた後、婦長宅に二〇日と二一日休暇を取る旨を電話で一方的に告げて、強いて本件集会に参加した。原告は、覆面用のタオルと軍手や紺色ヤッケを持参したが、ヘルメットは九州実行委員会が用意したバスの中で配付を受けた。右ヘルメットは白色(中核派が常用する色)で、「中核」の文字が表示されていた。

(四) 本件集会は、予定より約三〇分遅れて一二時三〇分ころ始まった。参加者は警察の発表によると約三九五〇人程度であり、中核派を中心とする過激派も多数参加していた。原告は、九州実行委員会の隊列の中にいた。本件集会では、主催者の挨拶や報告、参加した各支援団体の決意表明などが順次行われ、一五時五〇分ころから、共闘団体として、中核派全学連委員長鎌田雅志が、「我々の本日の目標は、成田空港への突入である。全学連は武装し、機動隊をせん滅する。」「用意はいいか。準備はできたか。」などとのアジ演説を行った。その後一六時一〇分ころ、トラック等六台に積載して大量の鉄パイプ、角材、火炎びん、石塊等が公園内に運び込まれ、これらの兇器によって「武装」した中核派を主体とする過激派集団が、一六時二〇分ころから、順次公園を出発し、国道二九六号線上を三里塚交差点に向かった。先頭は丸太五本を抱えた集団であり、次いで鉄パイプや角材、火炎びんなどを携帯した集団、赤ヘルメットの戦旗派の集団、石塊を持った投石集団などの各集団及び後方支援にあたる集団などが順次編成されてこれに続き、その総数は合計約一五〇〇人程度になった。先頭の集団は、同二三分ころ、三里塚交差点で空港第三ゲート方向への進入を阻止するため警備に当たっていた警察部隊に丸太を抱えて突入し、後続集団が鉄パイプや、角材、棍棒などで機動隊員に襲いかかり、さらに、多数の火炎びん、石塊を投げ付けるなどして激しい暴行を繰り返した。これに対し、警察部隊も、催涙ガス弾を撃ち、放水をするなどして対抗した。そのため、一六時三〇分ころには三里塚交差点から公園前にかけての国道二九六号線上は騒然とした状態になった。

(五) 一方、公園内では、前記のように過激派集団が国道に順次出て行く間も集会が継続され、一六時三〇分ころに終了した。過激派集団以外の市民等の支援団体や反対同盟の参加者も、集会後はデモをすることを予定していたが、右のような三里塚交差点付近及び国道上の混乱のため予定されたコースでのデモができず、主催者側の要請で一時公園内に待機した後、同四五分ないし五〇分ころから国道とは反対側の公園南口等からデモ行進に出発し、あるいは三々五々公園を出てゆき、一七時前後にはほとんどの者が既に公園外に出て行った。しかし、公園内にはなお一〇〇人ないし一五〇人位の人が残っていた。

(六) 原告は、集会中は九州実行委員会の隊列のなかにいたが、前記の兇器を携帯して先発した過激派の隊列には加わらず、その場に残った。その後、近くの列にいた知り合いの松本信子から、同女の夫である松本榮二を捜し出して、同人が中核派の後を追って交差点の方に出ていかないよう一緒に止めてもらいたいと頼まれ、同女と共に松本榮二を公園の中央の演壇の方に捜しに行き、演壇の近くで松本榮二に会って、しばらく同人夫婦らとそこにいた。なお、デモに参加しない九州実行委員会からの参加者は、演壇近くに集まるようになっていたため、そこにはそれらの引率者の役割を負っていた下河弘美もいた。その後、原告は下河にトイレに行って外の様子を見てくる旨を告げてその場を離れて行った。

(七) 他方、本件集会の警備に当たった千葉県警本部は、前記のように過激派が「武装闘争」を宣言して本件集会への参加を呼び掛け、具体的に突入場所を指示したりしていた情勢から、過激派が大規模に兇器を用いて警察部隊を襲撃して空港突入を図る虞れがあると判断し、警視庁機動隊等各地からの応援を得て総勢約九五〇〇名の警察官を動員して空港各入口や三里塚交差点に警備部隊を重点配備して警備態勢を固めていた。そして、前記のように一六時二三分に三里塚交差点で兇器を用いた過激派集団との大規模な衝突が生じて後、警察側は、公園方面からの過激派側の後方支援集団の動きを封じ石塊等の補給を阻止し、かつ、国道上の過激派集団を後方から挾み撃ちにして捕捉する目的で、一六時三〇分ころ国道北側の各路地にも警察部隊を派遣した。その数は、A路地、B路地には各約五〇名、C路地に約一二〇名、D路地に若干名程度であった。また、遅くとも一七時ころまでには公園東側の路地にも、放水車及び警察部隊が配備された。

(八) これに対して、国道上にあった過激派集団の後方支援集団は、同四〇分ころから、これらの警察部隊の国道への進入を阻止し、三里塚交差点での主力攻撃集団に対する投石用の石塊の補給等の後方支援活動を維持するため、国道北側のAないしC路地の入口から約一〇メートル位奥に入ったところ(その位置は柳川証言によると別紙図面に表示した位置である。)に、自転車や、看板、トタン板などでそれぞれバリケードを築きだし、バリケードを挾んで警察部隊と対峙しこれに対し投石などを行った。これらの過激派集団の人数は、A路地には約三〇名、B路地に約四〇名、C路地に約一五〇名くらいであった。このため、警察部隊は一時前進を阻まれた。

その後、一七時三分になって、前記国道北側路地に配置された警察部隊は、バリケードを挾んで対峙し投石を繰り返していた過激派集団に対して検挙活動を開始し、一七時一五分くらいまでの間、各路地周辺及び公園内で検挙活動を行った。公園東側の路地に配備された部隊も、そのころ公園内に入り、検挙活動を行った。

(九) このとき、原告は、前述のとおり一七時一〇分、A路地の入口に近いところで捕捉され、バリケードの奥に引きずられて行って兇器準備集合罪、公務執行妨害罪の現行犯として逮捕されたのであるが、逮捕に当たった警察官はA路地に配備されていた警視庁第四機動隊第一中隊所属の機動隊員であった。逮捕の際、原告は中核の文字が入った白ヘルメットをかぶり、白タオルで覆面し、紺色ヤッケを着て、白軍手をはめていたが、角材や石塊等は持っていなかった。また、原告の投石の事実自体は目撃されていない。なお原告は、この時「逮捕時の心得」と題する「全学連救対部」名義のビラを所持しており、右ビラには逮捕に備えて完全黙秘を貫き、救援連絡センターの指定する弁護士を選任することなどの注意が具体的に記されていた。

(一〇) その後、各路地周辺及び公園内での検挙活動を終えた警察部隊は、一旦公園前の国道上に集結して態勢を立て直したうえで、一七時二五分くらいになって、公園前から三里塚交差点方向に向って進行し、検挙活動を進めた。

以上の事実が認められる。

2  しかして、被告が主張するように、原告が三里塚交差点付近で警察部隊に兇器を用いて攻撃を加えた右過激派集団の後方支援部隊の一員として、A路地において、過激派三〇人と共にバリケードを挾んで警察部隊と対時し投石を繰り返すなどの攻撃を加え行動を共にしていたとの事実についての積極的な証拠は、大学側が警察などから説明を受けた内容を記録した聴取書や警察側の回答書(〈証拠略〉)及びその聴取内容や調査経過等に関する人事院公平委員会における証人渡邉隆と同大岡和雄の各証人尋問記録書(〈証拠略〉)並びに当裁判所における証人柳川邦彦(千葉県警の本件集会警備本部特捜隊の責任者)の証言である。

まず、本件処分前の昭和六〇年一二月の警察及び検察庁からの事情聴取書である(証拠略)によると、A路地に中核派集団によりバリケードが作られ、バリケード内側から警官隊に対し激しく投石が行われた、集団は約三〇名で、鉄パイプ、角材を所持する者がいた、警官隊がバリケードを乗り越えて集団の中に進入したところ、集団の前面左方に原告がおり、逃亡しようとしたところを警官に逮捕された、原告自身が投石した事実は確定できなかったというもので、他に、そのときの原告の服装や不起訴が起訴猶予を理由としていたことなどが記載されているが、警察部隊がバリケードを乗り越えた時点で現に投石が行われていたのか否かは必ずしも明らかではなく、原告を目撃した状況も具体的に明らかではない。

つぎに、人事院公平委員会の審理の途中である昭和六二年二月及び三月の前記柳川からの聴取書である(証拠略)では、原告を逮捕したのはA路地に配備されていた警視庁第四機動隊第一中隊員であり、原告が約三〇人の集団のなかにいたことは間違いないとされているだけで、逮捕時の具体的な状況はそれ以上説明されてはいない。

これらの点がより具体的に説明されているのは、同年六月一七日付けの柳川からの電話聴取書である(証拠略)である。それによると、柳川から、警察部隊がバリケードを突破して前に進んだその時三〇人の集団が投石を繰り返していた、その中の要員中に原告がいた、集団の左手前方(警察側からみて)に眼鏡をかけて紺色のヤッケにグレーのジーパンを履いた女性がいて、警察部隊がバリケードを乗り越えて行った時逃げようとしたところを追い掛けて捕らえ、奪回されるといけないので奥のほうに連れて行って正式に逮捕したという様な記録になっているので間違いない、原告の個々の行為は確認されていないが、投石集団の中にいたことは確認されているとの説明がなされている。

なお、証人柳川は、右のような説明は、その前からしていた旨を証言しているが、渡邉隆や大岡和雄の前記証人尋問記録書の内容はこれと異なっている。

そして、(証拠略)は、警察側の逮捕の日時、場所(ただし、(〈証拠略〉)では異なる逮捕場所が記載されている。)、被疑事実、不起訴処分等の形式的事項についての回答である。また、前記人事院公平委員会における証人尋問記録書(〈証拠略〉)の内容は、前記各聴取書に沿っており、証人柳川の証言も基本的には同様であり、右各聴取書の内容を確認するものである。

ところで、右各聴取書の内容はいずれも柳川ら警察官が何らかの捜査資料に基づいて状況を説明しているのであるが、その元になった資料自体は証拠になっておらず、その具体的な記載内容の詳細は、必ずしも明らかではない。そして、原告の前記逮捕時の状況についても、逮捕者の氏名や原告を目撃した位置、その間の距離、目撃した時刻、目撃後逮捕に至るまでの具体的な動き、その間にはたして被目撃者と原告の同一性について誤りが生ずる可能性はないといえるような状況であったのか否かなどの具体的な事実は全く明らかではない(ちなみに、(〈証拠略〉)の説明によると、バリケードを突破する際原告を目撃した時点と逮捕の時点とは時間的に接着しているように思われるが、証人柳川によるとA路地で検挙活動に入ったのは一七時三分であり、同路地での最初の逮捕者の逮捕時間は同八分であるというから、原告の逮捕時間の同一〇分との間にはかなりの時間があって、バリケードを実際に突破した時刻やそのときの状況がどのようなものであったのか、突破後過激派集団はすぐ逃げ出したのかどうか等に応じて、種々の事情が介在する可能性が考えられる。また、理科年表によると同日の千葉市の日没時間は丁度一七時ころであるとされている。)。そうすると、前記柳川らの説明の元となっているそもそもの捜査資料の信頼性の程度について十分な検証を行うことはできないのであるから、その意味において、もともとこれらの証拠資料に高い証拠価値を認めることはできないといわざるを得ない。

また、(証拠略)の電話聴取書についていえば、原告が過激派集団の一員として行動したか否かについての最も肝心な点が、一番最後になって、しかも電話聴き取りという形でしか記録されていないことは、やはり、不自然な印象を免れないし、その作成経過についても、(証拠略)の一の大岡和雄の人事院公平委員会における証言によると、録音機も使用せずに約五分間くらいでなされたというのであるが、その内容に照らし到底納得できるものではない。

つぎに、原告は、人事院公平委員会の段階から、兇器を携帯して最初に出ていった攻撃集団には加わらず公園に残ったこと及び公園前の国道上は特に混乱はなかったので、公園角まで出たところを後ろから追われた旨を主張してきている(ただし、最後の点は後になってからの主張)のであるが、この点に関して、証人柳川は、当裁判所の証言に際し「先行グループの兇器を持って駆け足で前進した一五〇〇人の攻撃部隊の後方に、別に約六〇〇人ぐらいの後方支援部隊があり、投石用の石を補給したり、路地からの警察部隊の進入の阻止ないしこれへの攻撃を任務として後続集団としてほぼまとまって出ていった。また、公園の前付近では更に一五〇名くらいが警察部隊に投石をした。」旨を新たに証言し、原告が先行集団に加わらなかったとしてもこの後続集団に加わっていた可能性があることや、多数の過激派集団が国道に出たことや投石者などにより交差点から公園前に至る国道全面にわたり混乱が継続していたことを示唆するようである。

しかしながら、約一五〇〇人の攻撃部隊の外に約六〇〇人の後続部隊があったとの証言は、同証人の昭和六二年二、三月当時の説明である(証拠略)の内容と明らかに矛盾し、にわかに信用できない。かえって、この点について、同証人は、当時は後続の支援部隊のことについて聞かれなかったので答えなかった、(証拠略)で公園南口から出た反対同盟の人たちの数が約二三〇〇人とされているのは誤りで、約二三〇〇人というのは、先行の一五〇〇人と後続の六〇〇人と公園前の一五〇人を合わせて、警察部隊に攻撃した全場所での総数として申し上げたものであり、武装していない反対同盟の数ではない旨を弁明するが、(証拠略)によると、大学側が一七時前後の公園前及び国道上の状況を概括的に聞いたのに対し、柳川は過激派グループの各部隊の編成や人数を具体的に答えているのであるから、実際に後続集団があったとすれば、当時これの説明がなされないのは極めて不自然であるし、複数で聴き取りに当たった大学側が警察部隊を攻撃した過激派の総数と南口から出た反対同盟の人数とを聞き違えるということも考えにくいことである。現に、本件とは全く別の証拠に基づくと考えられる新潟地方裁判所でなされた国鉄関係の懲戒事件についての民事事件の判決(〈証拠略〉)でも、南口から出た人数が約二三〇〇人であったと認定されており、本件と同様に警察側からそのような数字が提供され証拠とされたものと考えられる。また、中核派の中心グループに関する千葉地方裁判所の刑事事件の判決(〈証拠略〉)では、警察側の採証活動に基づく多くの客観的な証拠や多数の者の証言等が証拠として掲げられたうえで、兇器を携帯した各過激派集団の人数が幅をもって認定されているが、それらは、右各証拠を十分比較検討した結果に基づくものと推認されるところ、その人数を合計しても、約五〇〇人から七〇〇人程度であるから、柳川の当初の説明にいう約一五〇〇人には後から国道に出てきた後方支援の者などがもともと含まれていたと見るのが相当である。ところが、柳川は、敢えて別に約六〇〇人の後方支援集団があった旨を証言し、それを前提とすると集会参加者総数約三九五〇人との関係で矛盾が生ずる(すなわち、先行集団一五〇〇人と後続集団六〇〇人と南口退出者二三〇〇人と公園残留者一五〇人の合計は四五五〇人になってしまう)ことから、強いて先のように無理なしかし巧妙な弁明をしたのではないかとも疑われ、その証言の信用性については疑念を持たざるを得ない。また、同証人の大学側への説明や証言は、現場で無線により報告を受けて個人の備忘録に書き留めておいたものや手元の捜査資料に基づくものであるというが、過激派グループの各集団の編成及び人数などは、先の刑事事件判決の認定とも異なっており、その説明などが、当時の捜査活動によって得られた最良の証拠を総合的に吟味検討した結果に基づき、かつ、その内容を正確に反映したものであったか否かについても疑問が生ずる。しかも、証言の主要な部分はいわゆる多重伝聞証拠であり、元になった捜査資料自体は手元になく、備忘録も既に処分済みであるということで、その信用性の検証も不可能である。

以上のような諸点を総合すると、前記のような柳川証言及び柳川の大学側への説明内容の証明力は、一般的には必ずしも高いものとはいえず、それなりに合理的でかつ具体的な反証の存在する事項については、右のような証拠だけから、原告の行動について具体的な事実を認定することは困難であるとせざるをえない。そして、他に被告のこの点についての主張事実を証する適当な証拠はない。

3  これに対して、原告は、処分理由記載の事実関係について前記第二の二争点1(一)のように主張し、(証拠略)及び原告本人尋問の結果中には右主張に沿った供述がある。

そこで、これらにより原告の逮捕に至るまでの状況についてみると、原告の人事院公平委員会の審理の際の当事者尋問記録書である(証拠略)には、原告は、当日、一六時四五分ころ松本榮二に会い、二〇分くらい演壇の近くにいて、それから下河に告げてトイレに行った後、三里塚交差点の方向がどうしても気になるので公園正面入口から国道に出て、交差点の方向へ小走りで行った、その時は国道上は特に何もなかったが、公園の北東角辺りに来たときに、後の方から機動隊がワァーと走って来たので戻るに戻れず、右手の公園東側の路地から放水車が来るのも見えたので、前に走り、放水車の放水を避けるという意識が働いて左側のA路地に追い込まれたところを、機動隊に追い付かれて、楯で垣根に叩き付けられて捕まった、捕まえたのは公園の方から来た機動隊だと思うが、路地の奥から来たのかも分からない、路地の入口に何人か居ることは気付いていたが、路地の奥の様子は分からない、溝に落ちて靴などが濡れたが、放水車の放水は受けていない、国道に出るにあたっては、様子を見たいという好奇心と共に、怪我をしている人があったら手当てをしてやろうというような積もりもあった旨の供述がある。

また、当裁判所の本人尋問では、原告は、右供述中演壇付近にいた時間は約一〇分から一五分くらいであろうと訂正したほか、トイレに行くころは反対同盟のデモの最後が出て行っていた、国道に出たのは様子を知りたいというためであり、また、九州実行委員会の人が怪我をしていれば手当てをする目的もあった、正面入口から出るころ機動隊は全く見えなかったし、付近は騒乱状態ではなかった、三里塚交差点に向ったデモの後の人たちが少し離れた位置に見えた、公園北東角辺りで気付いたときに後からくる機動隊とは約一〇メートルくらい離れていた、機動隊はたくさん来たなという感じであり走って逃げた、A路地の方に集会参加者が居たので、放水を避け、そちらに逃げた。路地の奥にいる機動隊を確認していないし、取り押さえたのは後から来た機動隊であり、その者が逮捕手続まで取った、路地にいた人たちは投石しているような状況ではなく、そこに対峙しているというような状況で、余り動きはなかった旨を供述する。

原告の供述する以上の事実関係については、原告が、兇器を携帯して先行した過激派集団には加わらず、集会後公園内で松本夫婦と会ったことや、その後下河にトイレに行って表の様子を見てくる旨を告げてその場を離れたことなどについては、これに沿った内容の人事院公平委員会での松本信子や下河弘美の証言(〈証拠略〉)や当裁判所での松本榮二の証言があり、その内容も具体的かつ自然であって、前記のように一応これに沿った事実を認定することができる。

しかしながら、原告が演壇付近に来て、その後その場を離れた時刻などについては右各証拠の間に相違があり、必ずしもこれを確定しがたいものといわざるをえない。また、下河と別れて以後の原告の行動については、その裏付けとなる証拠はない。もっとも、人事院公平委員会における尾上和子の証言(〈証拠略〉)は、同証人はA路地にいたが、一七時過ぎころ、左側(B路地側)の人家の間を縫って走って来た男に機動隊が来ると知らされ、国道の入口に出てみたら機動隊が国道の西側方向から駆け足で来た、同時に公園東側路地から機動隊と放水車が来て放水を受けたが、そのころA路地奥の機動隊がバリケードを越えて突進して来たというものであり、前記原告の供述は、これと比較的よく符合している。そして、警察部隊の検挙活動が、実際には過激派集団の主力部隊に遠いC路地、B路地から先に行われ、公園北東角にいた原告が国道上に出てきた警察部隊を見て三里塚交差点方向に逃げだし、放水を避けようとA路地に逃げ込んだ、丁度その直後ころA路地でも、奥にいた警察部隊がバリケードを乗り越えて検挙活動に入り、その結果、A路地にいた過激派集団は公園東側路地から来た国道上の放水車や警察部隊あるいはB路地などから来た警察部隊との挾み撃ちに会うようなかたちになり、その場にいた約三〇人のうち原告をも含めて八人もが逮捕されてしまった(〈証拠略・人証略〉)と考えれば、その限りでは事実関係を一応合理的に説明し得るようにも思われる。

しかしながら、〈1〉(証拠略)によれば、原告は人事院公平委員会の審理において、当初、「集会後帰宅しようとしたが、周辺が騒然としていたので危難を避けるため公園内に待機していたところ、午後五時ころになると衝突が収まったように見えたので、状況を確認するために逮捕地点付近に赴いた。その直後に警官隊がバリケードを突破してきたので、逃げようとしたが逮捕されてしまった。」として、逮捕現場には自分の意思で赴いた旨及び逮捕されたのはバリケードを越えてきた警官隊からである旨を主張していたことが認められ、原告の前記のような主張はこれを変更したものであること、〈2〉その変更の事情は明らかでなく、また、原告は勾留中や大学側の調査に対しては一切具体的な事情を述べておらず、本件訴訟における主張や供述は、原告が他の証拠の内容を知りこれに合わせる形で弁明を考えだすことも可能な時点でなされたものであること、〈3〉仮に原告の供述のような状況だとすると、原告の逮捕時間(一七時一〇分)及び公園正面入口とA路地入口との距離(〈証拠略〉によると約一三〇メートル程度)から逆算して、原告は一七時七、八分ころに公園正面入口を出たことになるが、そのころは、既に前記認定のように一七時三分ころから国道北側路地の警察部隊は検挙活動に入っており、C路地及びB路地の国道側入口付近はこれに対抗しようとする過激派の後方支援集団との間で投石等で激しい混乱状態にあったものと考えられるから、このことは、国道上に混乱はなく、したがって様子を見る程度のつもりで公園を出て公園北東角まで行った旨の原告の供述と矛盾すること、〈4〉このことを時刻の特定を別にして考えてみても、原告の言うような状況でその後方に機動隊が出現したとすれば、距離的に見てもそれはC路地の奥に配置された警察部隊約一二〇人の一部が国道上に出てきたものと考えられるが、原告が公園正面入口を出る時点ではC路地に混乱がなく、その後原告がC路地の入口付近を経て公園北東角に小走りで行くたかだか数十秒の間(その距離は〈証拠略〉によると約七四メートル)にC路地の警察部隊がバリケードを一挙に乗り越え約一五〇人の過激派集団を排除して原告の背後である国道上にまで出てきたとは到底考えられないこと、〈5〉また、前記のような仮説は、(人証略)によるとA路地において最初に逮捕された者の逮捕時間が一七時八分であるとされていることと整合せず、事実経過を全て説明し得るものではないし、各路地の警察部隊の検挙開始時刻や放水車の動きなどについても客観的な裏付けがないこと、〈6〉原告を逮捕したのは、前記認定のようにA路地に配備されてバリケードを乗り越えてきた機動隊員であり、原告の変更後の主張はこの事実に整合しないこと、〈7〉前述のように、柳川の説明によると、原告の現行犯逮捕に関する記録等には、原告は、A路地の警察部隊員がバリケードを乗り越えた際、同路地で警察部隊と対時していた過激派集団の左手前方に居ることを目撃され、逃げようとしたところを逮捕されたということになっていることが窺えるが、右の記録自体は前述のような事情から必ずしも充分な信用性を有するとはいえないにしても、逆に、全く信用できないものともいえないこと、などの諸点を考え合わせると、前掲のような原告側の変更後の主張に符合する証拠もこれを全面的に信用することはできず、これらにより、原告が言うように原告はA路地の過激派集団とは無関係で、機動隊に追込まれて来たものと認定することはできない(なお、前記尾上和子の証人尋問記録書である(証拠略)によると、A路地には(原告と同様に)九州から一緒に参加したものが約一〇人とあるいは二〇人いたとされていることも気になる点である。)。

4  そこで、以上検討してきたところを総合して考えると、原告が、A路地においてバリケードを築き警察部隊に対し投石を繰り返していた約三〇人の過激派集団の一員として、同路地において兇器準備集合罪、公務執行妨害罪の現行犯として逮捕されたこと自体やその時の原告のいでたちなどは証拠上明らかであるが、一六時二〇分から兇器等を携帯して三里塚交差点に向って出発した過激派集団に当初は加わっていなかったと認められる原告が、いつ頃から、どのような経過で同路地にいることになったのか、原告自身が同集団の中にあって投石等の行為を行っていたと推認されるような客観的状況にあったのかなど、原告の下河らと別れた以後の行動についての具体的な事実は、本件証拠上、結局、十分には明らかではないといわざるを得ない。つまり、前述のように、路地奥の警察部隊がバリケードを乗り越えた際、原告が投石している右集団の左前方に居るのを目撃し現行犯逮捕したという記録になっているという柳川証人の証言や電話による最後の説明などは、それらを前記のような原告側の反証などと合わせて考えると、それらのみによって原告の行動を認定することはできない。また、逆に、原告の供述についても、原告が公園を出て逮捕されるに至るまでの部分は、他の証拠によって窺われる現場の状況などに符合しない点があり、原告の供述自体に存する矛盾や、その主張が変遷していることなどに照らしてにわかに全面的に信用しがたいものがあるといわざるを得ないのであって、原告が言うように原告はA路地及び国道上で警察部隊に対抗していた過激派集団とは無関係でたまたまA路地に追込まれただけで、その逮捕は違法な誤認逮捕であったとも認めがたいのである。

5  しかしながら、翻って考えてみると、原告は、兇器を準備して警察部隊を攻撃し空港突入を目標とすることをあらかじめ宣言していた中核派の呼び掛けに応じ、その一員として職場を無断欠勤してまで強いて本件集会に参加した者で、もともとこれらの過激派集団に同調しこれを支援していた者である。しかも、兇器を携帯して出発した中核派等の武装した一団に当初は加わっていなかったことが明らかであるとはいえ、これらの過激派集団とは一応一線を画した一般市民を含む反対同盟のデモ隊が公園南口を出て解散地点に向った後である同一七時すぎころの時点で、先の過激派集団が警察部隊との対峙、攻防を行っていた三里塚交差点から公園までの間の国道上に自らの意思で出て行ったうえ、結局はこれに接するA路地上において逮捕されるに至ったのである。国道に出て行った事情は必ずしも明らかではないが、原告自身の供述によっても過激派側の負傷者があったら救護しようという積もりもあったというのであり、後方支援の意図は否定されていない。そして、逮捕された際の原告の服装は、先に認定したとおり中核の文字が入ったヘルメットをかぶり、タオルで覆面をし、軍手をはめ、紺のヤッケを着るという過激派の闘争スタイルであり、また、逮捕後の完全黙秘の態度などからしてもあらかじめ逮捕されることがあり得ることを覚悟していたものと推認されたことなどを総合すると、原告が、これら過激派集団の行動に同調し、「行動を共にしていた」との社会的評価を受けることはやむを得ないことといわなければならない。もとより、右の「行動を共にしていた」ということの意味は、必ずしも刑法的な意味で構成要件に該当する行為を共同し、その間に共同正犯ないしは幇助犯の関係が成立するということを意味するものではなく、いわばその行為に対する社会一般の評価として、そのように評価されるということを意味するに過ぎないものである。

ところで、公務員の懲戒処分は、もとより刑事処分ではないのであって、その処分は、処分理由となった行為の刑法的な側面に注目してなされるのではなく、その行為が社会一般の目から見て公務秩序の維持及び国民全体の奉仕者としての公務員にふさわしいか否か、官職の信用を傷つけ官職全体の不名誉になることはないかというような観点からなされるものである。したがって、処分の対象となる行為も、右のような社会的な評価の対象となるべきものとして把握され、かつ検討されれば足りるということができる。また、そうだとすれば、評価の前提とされる行為そのものがどの程度に個々的に特定され、具体的に明らかにされていなければならないかということについても、刑法的な評価の前提とされる場合に比べて、それなりの幅を持って特定した上で、これを包括的に評価するようなことも許されようし、さらには、公務員が本件のような法治国家としては到底許容し難い過激派による反社会的な重大事犯に関連して現行犯人として官憲に逮捕され、それが大きく報道され社会的に問題にされるというようなことになれば、それが当該公務員の職務とは直接関連しない場合であっても、そのこと自体で、法規を遵守して全体に奉仕すべき責務を担っている官職全体の信用を大きく傷つけ、公務の信頼を失うことがあり得るのだから、そのような事態が予測される場合には公務員は自重してそのような結果になることを慎重に避けるべきであるのにこれを怠ったという意味合いで、その結果について一種の過失責任ないしは結果責任を負わなければならない場合があることも認めざるを得ない。

これを本件についてみると、原告の逮捕直前における具体的な行動自体は証拠上必ずしも明らかではないところがあるけれども、前述のように、以上に認定した限りにおいても、これを全体として見るならば、原告が、兇器を携帯して警察部隊に攻撃を加えた過激派集団と行動を共にしたと社会的に評価されること自体はやむを得ないことである。また、前記認定の現場の状況などによると、少なくとも前記逮捕時間に接着する時間帯に、前記のような服装で国道上にいた原告が、過激派集団の違法行為の制圧及び検挙に当たった機動隊員に兇器準備集合罪等の現行犯として逮捕されるに至ったこともやむを得ないことであって、これを違法逮捕であるとみることはできないから、結局、逮捕されるに至った責めは原告自身が負うしかないのである。そして、前記認定のような中核派を主体とする過激派集団の「武装闘争」が民主主義的な法治国家では到底許されない態様のもので、これがもたらした重大な被害や、後述のようにこれが社会に及ぼした衝撃の大きさ等に照らすと、そのような過激派集団と「行動を共にした」と評価され、かつ逮捕されるに至ったということは、法規を遵守し、国民全体に奉仕すべき公務員にふさわしくない非行であり、官職の信用を傷つけ官職全体の不名誉になる行為であって、国家公務員法八二条一号及び三号に該当するものというべきである。このことは、原告の本件行為が直接その職務に関連していないことや、原告の職種などを考慮にいれても同様である。

したがって、原告には本件処分理由に該当する国家公務員法上の懲戒事由が認められる。

6  なお、原告は、処分理由となっている「行動を共にした」ということはあいまいで意味不明であり、防御不能である旨を主張する。確かに「行動を共にした」というのは具体的な個々の事実を指すというよりは、前述のように、それらを包括した上でなされた一定の社会的評価を表現しているというべきであるが、本件の場合にはそのような評価を受けるに至った事実関係の範囲は十分に特定されており、むしろ、その事実関係を懲戒権者においては「行動を共にした」と評価して処分の理由としたことを明らかにしているといえるのであるから、この点において処分理由が不明確であいまいであるとか、意味が不明であるとはいえない。また、原告としてはその特定された範囲の事実について具体的な反対事実を主張してしその評価を争えばいいのであるから、防御不能であるとはいえないし、その防御権を不当に侵害するともいえない。したがって、この点についての原告の主張は採用できない。

二  処分の相当性について

1  国家公務員につき懲戒事由がある場合において、懲戒権者が懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかは、その判断が、懲戒事由に該当すると認められる行為の性質、態様等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等、広範な事情を総合して判断すべきものである以上、平素から庁内の事情に通暁し、部下職員の指揮監督の衝にあたる懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきであり、懲戒権者が右の裁量権を行使してした懲戒処分は、それが社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められない限り、その裁量権の範囲内にあるものとして、違法とならないものというべきである。したがって、裁判所が右の処分の適否を審査するにあたっては、懲戒権者と同一の立場に立って懲戒処分をすべきであったかどうか又はいかなる処分を選択すべきであったかについて判断し、その結果と右処分とを比較してその軽重を論ずべきものではなく、それが社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したと認められる場合に限り違法と判断すべきものである(最高裁昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一二二五頁等参照)。

2  そこで、これを本件について見るに、

(一) 原告が行動を共にしたと評価された過激派集団の行為は、第二の一3及び第三の一1(四)で認定したとおり、あらかじめ空港突入を宣言し大量に準備した兇器や火炎びんを用いて警察部隊に大規模な攻撃を加え、多数の負傷者を出すとともに付近の民家や商店に被害を及ぼし一部を炎上させたもので、法治国家としては到底容認し難い極めて反社会性の強い過激な組織的暴力行動であり、付近住民に大きな不安を与えたことはもとより、新聞各紙や週刊誌などには「市街戦」とまで表現されて大々的に報じられ、社会に対しても大きな衝撃を与えた事件である(〈証拠略〉)。

また、その際に逮捕された者の中に二〇数人の公務員が含まれていたことが問題になり、閣議でも取り上げられ、事務次官会議でも逮捕された職員については厳正な措置を取り、公務員としての職務規律を正すべきことが論ぜられるなどした(〈証拠略〉)。

(二) 原告は、かねて職場において、上司から、過激派集団の一員としてこの種の違法な闘争に参加することのないよう再三注意を受けていたが、これまで、場合によっては無断欠勤してまで強引に中核派の一員として成田空港反対集会に参加してきた(ただし、これまでは、原告が参加した集会で現実に違法行為が行われるに至ったとの証拠はない。)。原告は、今回、起訴猶予処分となって釈放された後の一一月一三日、上司である看護部長らから逮捕勾留により長期間欠勤して職場に迷惑を掛けたことに関連して心境や今後の心積もりを聞かれ、同月二六日には処分を前提として逮捕されるに至った事実関係について事情聴取を受けたのに対しても、不当逮捕であるから何も説明する必要はないとして一切の説明を拒否して、全く反省の態度を示さなかった(〈証拠略〉)。

(三) 原告の勤務する職場は、日勤、準夜勤、夜勤の交替制勤務の看護部であり、無断ないし突然の欠勤などは、その都度代替勤務者を確保しなければならないことから他の看護婦等の迷惑になるにもかかわらず、原告は、第三の一1(三)で認定したとおり、本件集会の当日について休暇の承認が得られなかったのに電話で一方的に通告しただけで強引に欠勤してこれに参加し、そのあげく逮捕勾留され、昭和六〇年一〇月二〇日から一一月一二日までの間に二〇日間にわたり勤務を欠き助産婦としての重要な職務の遂行ができず、職場に負担をかけた。ちなみに、原告は採用まもないころから、突発的に連続した休暇をとることがあり、休暇が承認されない場合にも、欠勤届けを書き置きして欠勤したりしたため、再三にわたり注意を受け、昭和四八年一二月一一日には、勤務命令に従わず欠勤したとの理由で、医学部付属病院長名で文書による厳重注意処分を受けたことがある。その後も、前記のように成田空港反対闘争に参加するための連続休暇の請求は、上司からの注意にも拘らず続いていた(〈証拠・人証略〉)。

(四) 原告は、本件処分が同種事案に比して異常に過酷である旨を主張するが、原告の主張する事案はいずれも本件とは性質、事案あるいはその後の反省の程度などの事情を異にするので、比較対照するのは必ずしも適切でない。また、前記のように本件闘争の際に過激派集団の一員として逮捕された者の中にかなりの数の公務員が含まれていたことが社会的にも問題となり、文部省大臣官房人事課長からも、特に服務規律の確保について要請がなされた。ちなみに、本件闘争に参加して逮捕された公務員のうち国家公務員は原告を含め五名であるが、主力攻撃部隊に属して活動し起訴された二名のほか、本件原告のように起訴猶予処分となった三名も、いずれも懲戒免職処分になっている(〈証拠略〉)。

以上のような事情を総合して検討すると、被告が原告に対し、本件行為につき懲戒免職処分を選択した判断が恣意にわたり、あるいは合理性を欠き、社会観念上著しく妥当性を欠くとはいえないから、本件処分は被告に認められた裁量権の範囲内にあるとするほかはない。

3  なお、原告は、処分理由事実の確認などの処分の手続きがずさんであるなどとも主張する。しかし、長崎大学庶務部長の大岡和雄は、昭和六〇年一一月六日及び二〇日の二回にわたり、千葉地検あるいは千葉県警に赴くなどして事実関係を調査し、原告が逮捕された日時、場所、逮捕時の状況、逮捕容疑、罪名、逮捕時の服装、原告の不起訴は起訴猶予処分であることなどを確認し、被告は、それらの調査に基づき、文部省にも報告の上で本件処分理由該当の事実の存在を確認しているのであり(〈証拠略〉)、他方、原告は、被告からの事情聴取に対しても前記のように単に抽象的に不当逮捕である旨を述べただけで、事実関係について具体的な主張をし調査に応じようとしなかったことを考え合わせるならば、被告の処分理由の確認がずさんに過ぎ著しく合理性を欠くとはいえない。また、被告が、本件処分について文部省と協議し、あるいは、刑事裁判による有罪の確定を待たずに処分に及んだとしても、そのこと自体、前述のように懲戒権者の合理的な裁量に委ねられている事柄であり、本件においてこの点で裁量権の逸脱があったとは認められない。

三  まとめ

以上のとおり、本件処分については、懲戒事由の存在が肯定され、かつ、処分の相当性についても裁量権の逸脱は認められないから、結局、本件処分は適法である。

(裁判長裁判官 小田耕治 裁判官 井上秀雄 裁判官 浦島高広)

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